大国 隆正 おおくに たかまさ
   

(立)てそむる(初めて…する) 志だに たゆ(弛)まずば
龍のあきと(顎=あご)の 玉もと(取)るべし
  最初に立てた志さえしっかり心に留めて、弛(たゆ)むことなく歩いて行けば、
  龍の顎の下にあるとされるおめでたい宝玉すらも掴むことが出来るのだ
30p×133p

寛政4年11月29日(1793年1月11日)生〜明治4年8月17日(1871年10月1日)歿
慶応3年(1867) 76歳の作
 石州津和野藩士今井秀馨の長男として江戸桜田江戸藩邸に生まれる。姓は初め今井、のち野々口を称し、また大国と改めた。名は一造・匠作・仲衛など、諱は秀文・秀清・隆正、字は子蝶、号は葵園・佐紀乃屋。
 文化3年(1805)15歳の折、平田篤胤の門に入り、古道学を学ぶ。続いて昌平校に入学し古賀精里に就いて朱子学を学ぶが、こちら文化7年去っている。その一方で伊勢長島藩主の増山雪斎に絵画を習い「戴雪」を号し、詩を菊地五山に師事した。のち本居宣長の学風を慕って宣長の弟子村田春門に入門し、音韻学などを学んだ。
 文政元年(1818)から5年間、長崎に遊学、吉尾権之助に蘭学を学び、併せて梵学、中国書法を修学した。「たてそむる志たにたゆますは龍のあきとの玉もとるへし」はこの頃の作である。
 国学ばかりか儒学・蘭学・梵学を一通り学ぶと、以後文人墨客との交わりを絶ち、専ら神代の古事、皇朝学、五十音図に関する諸書の研究を決意、『古伝通解』『矮屋一家言』の稿をおこした。
 文政11年(1828)、津和野藩の大納戸武具役を務めたものの、学志を捨てられず同僚の誹謗に憤り翌12年に脱藩、天保2年(1831)父の死後、姓を野々口と改めた。同5年、家が火災に遭い、やがて妻子を人に託して大阪に出る。大坂での浪人生活を経て、天保7年には播磨国小野藩藩主一柳末延の招聘を受け、国学を主とした学校・帰正館を創設して藩の子弟の教育に携わった。また、また京都に家塾・報本学舎を開いて独自の「本教・本学」を唱導し、在野にあって子弟教導の任に従事した。
 その後も津和野藩や姫路藩、福山藩に招聘され、皇道復興に尽くした。維新後は浦上キリシタン問題で藩主の亀井茲監や高弟の福羽美静とともに改心教化への建言を行うなど、国民教導への積極的な態度を見せた。
 嘉永6年(1853)、ペリー来航の際には『文武虚実論』などを著し国防を論じた。
 明治維新後は明治元年(1868)、77歳にして徴士に登用され、内国事務局権判事・神祇事務局権判事を歴任したが、間もなく老齢を理由に職を辞した。明治3年、東京に移り、翌年死去。
 門人に鈴木重胤・玉松操・福羽美静・宇陀春邨・片岡正占など、学問・思想・宗教各界における有力者を多数輩出した。
 著書には上記のほか『本教神理説』『本学挙要』などがあり、歌書としては『六句歌体弁』『歌日記』『歌学入門』『言葉の正道』『わか草』などがある。明治28年に門弟が成した家集『真爾園翁歌集』に千百余首の歌を残した。
 「七十六翁 隆正」の下に、朱文の「寶」の落款印が押されている。

推奨サイト
http://wp1.fuchu.jp/~sei-dou/jinmeiroku/ookuni-takamasa/ookuni-takamasa.htm
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9B%BD%E9%9A%86%E6%AD%A3
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%9B%BD%E9%9A%86%E6%AD%A3-17866
http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db2/kokugaku/ookuni.001.html
http://n-shikata.hatenablog.com/entry/2016/05/16/153435
http://www.mkc.gr.jp/seitoku/pdf/f40-4.pdf#search=%27%E5%A4%A7%E5%9B%BD%E9%9A%86%E6%AD%A3%27

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/takamasa.html
http://ameblo.jp/kotodama-1606/entry-12087333838.html


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